齋藤 和雄
  ご 挨 拶
副会長 西 信三(42期)
 

  私は昭和41年に卒業し会員となりました。59年から生化学第一講座(現分子生化学講座分子生物学分野)を担当しております。
  平成10年、井上芳郎教授が医学部長に就任され、私が教務主任を務めることになり、田邊会長の同窓会と医学部の連携を密にするというご意向で副会長になりました。
  先日、発行された「北大医学部同窓会新聞縮刷版」を手にし、その重みと厚さに大きな感激を覚えました。100号までの発行に当たられた多数の関係各位に、また、縮刷版を担当された方々のご努力と御苦労に頭が下がる思いが致します。
巻頭で会長が述べられているいるように「同窓会新聞は会員相互の親睦と学術の振興を図る上で大きな役割を果たして現在に至っている」と考えます。昭和36年の創刊号の安保 寿初代会長のお言葉によるとこの号の8、9年前にタブロイド版の会報が発行されたとの事です。しかし資金不足のため2号へとは続かず終わってしまったとあります。「会員たるもの会費を納め会誌や会報を愛読し、進んで投稿すべし」と述べられています。私も大いに賛同し、100号までの新聞に目を通しました。
  因みに、当時の年会費は300円で、38年から48年までは500円、53年までは1000円で、54年から平成9年までが3000円。
  平成10年4月から現行の5000円となっています。創刊号から100号まで毎回、欠かさず載っている記事は、会費納入のお願いです。同窓会活動が会員のご協力とご支援で成り立っている事をまざまさと痛感させられました。
  私事ではありますが、13号の50周年記念会館建設寄付申込者の中に父(西 信次・6期)の名を、30号の34期便りに長兄(西 信博)が父の跡を継ぐとありました。82号の新入会員(68期)に息子(西 信也)の名前があり、時の流れと我が身の年老いたことを思いしらされもしました。
  毎号、一面の上半分は季節感に溢れた写真で飾られているのが当然の様に思っていましたが、それは52年頃から定着し、またそのころから会員撮影の作品となった様です。62年にはカラ−写真が登場しています。また会員の著書の紹介、和歌、俳句、エッセイー、紀行文、絵画等の投稿が盛んになりだしたのも52年頃からです。47号(55年)に「有珠山の泥流」と題された油絵(谷村一夫先生・専6期)があり、「樹や草の泥流に負けず力強く再生する姿を描きたかった」とありました。今、連日噴火を続けている同山を思い、また、医学部が大きく変革を遂げつつあることを思うと何とも意味深く印象的な絵に映りました。さらに、44年の50周年記念会館の落成式の席上、山田守英先生が「今迄の形式にとらわれず過去50年の反省を基に次の半世紀への大飛躍をとげる様・・」とご挨拶をされています。医学部は、大学院重点化を終え、21世紀に向けて飛び立とうとしています。これが「次の半世紀への大飛躍」へと成りますことを確信し、稿を終わることとします。

 
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